開祖は行基菩薩、古くは武田家祈願寺
松本山大蔵経寺(しょうほんざんだいぞうきょうじ)は奈良時代
養老6年(722年)に法相宗の行基菩薩を開祖として創建されたと
伝えられています。
往古は菩提山長谷寺(ぼだいさんちょうこくじ)の本坊で、松本寺と呼ばれており、山内に物部神社を勧請し、大寺院であったようです。
応安年間(南北朝時代)足利三代将軍義満の庶子、観道上人(かんどうしょうにん)が中興開山として入山するにあたり、義満公が甲斐の守護武田信成に命じて七堂伽藍を建立させました。
この時より武田家祈願寺になっています。
江戸時代は徳川家より保護を受ける
江戸時代に入ってから、徳川家康・秀忠らによる当山護持復興に、
約30石の所領が御朱印地として安堵され、寺門は興隆をみました。その時に賜った家康公の念持仏である三面大黒天や、権現堂厨子が
現在残っています。
享保3年(1718年)甲府藩主柳沢吉里公が大般若経を寄付し、大蔵経寺に甲府城(舞鶴城)の祈願を依嘱し、毎年正月甲府城内で大般若経を転読しました。また当寺は甲府城から鬼門にあたるので、甲府城代が毎月17日、武運長久に祈願参拝したと伝えられています。
江戸期は新義真言宗檀林能撰寺格(学問所)を有し、
甲斐国真言宗七檀林の一寺とし寺門興隆の一途を辿りました。
創建以来、数度にわたる火災により堂宇は焼失してしまいました。
現在の伽藍は天保から安政年間に再建されたものです。
御本尊「不動明王座像」(伝 智証大師作)
真言密教の中心の仏である大日如来の化身です。
心の迷いを取り除き、どんなものでも救うために厳しい
忿怒(ふんぬ)の顔をされています。
右手の剣であらゆる迷いを断ち切り、左手の羂索(けんざく)という縄で正しい方向へ導いてくださいます。
背中に背負う炎で煩悩を焼き清め、お座りになっている
盤石(ばんじゃく)や瑟瑟座(しつしつざ)という台は、
お不動様のゆるがない心を象徴しています。
脇侍は、矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)童子。
将軍地蔵
川中島合戦にあたり武田信玄公が戦勝祈願をされた
地蔵菩薩像です。
甲冑を身に着け武器を持ち、戦の守護尊として多くの
武家に信仰されたと言われています。
三面大黒天
中央に大黒天、左に毘沙門天、右に弁財天の姿が刻まれた三神一体の尊像です。
当山第十世海真の代に徳川家康公より寄進された家康公の念持仏です。
厨子右扉の内側には「神君当寺御腰掛砌住持海真御寄附申傳候」とあり、家康公が当寺に立ち寄り本像を寄進していった一文が書かれています。
武田家滅亡後、権力の空白が生まれた甲斐の国をめぐり家康と秀吉は全面対決の様相を呈していました。
後に甲斐国は徳川の領地となり、家康は大蔵経寺を保護し、徳川家祈願所と定めました。
甲斐の拠点、また西への備えとして甲府城の築城に着手し、大蔵経寺は甲府城の鬼門守護の寺として重んじられました。